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貝塚寺内町の社寺

寺内町には、神社は感田神社、寺院は願泉寺を始め、尊光寺、満泉寺、正福寺、
泉光寺、要眼寺の浄土真宗6ヶ寺の他、日蓮宗妙泉寺、浄土宗上善寺の計8ヶ寺が
あり、海新には浄土宗龍雲寺があります。
江戸時代には、満泉寺、正福寺、泉光寺、要眼寺、真行寺(現在はない)の五ヶ寺は「寺僧」と呼ばれ、願泉寺の檀家を預かり、地頭卜半家の家来としての職務も務めていました。

感田神社 ‐ 登録有形文化財 ‐

感田神社

 

貝塚寺内町の産土神で、天照大神、素盞嗚尊、菅原道真を祭神とする。
 
社の創建については異説があり明らかではないが、天正15年(1587)、海塚の
祇園社、堀の天満天神社を歓請し、天照大神を中心に神田の地に祠を祭り、
その祠が陶器の小社であったので、俗に感田瓦大明神と呼び同時に宗福寺を
開いたといわれる。

平成20年9月に一之社(琴平神社)安永2年(1773)、三之社(神明神社)、
四之社(住吉神社)、五の社(春日神社)万延元年(1860)、神輿蔵
(明治中期)、神楽殿 昭和29年(1954)、神馬舎 宝暦8年(1758)、
参集殿 明治15年(1882)、齋館 昭和10年(1935)、神門 安永9年(1780)、
土塀 江戸後期、南門 明治22年(1889)等が国登録有形文化財となった。

願泉寺 ‐ 重要文化財 ‐

願泉寺

 

金涼山真教院と号し、阿弥陀如来を本尊とする。
僧行基の開創と伝えられ、応仁年間に蓮如上人が教えを説いた草庵であるという。
 
天文14年(1545)、紀州根来寺から卜半斉了珍を迎え、草庵を再興し同24年
(1555)には寺内に取り立てられ免租の特権を付与された。天正5年(1577)
には織田信長の軍勢に攻められ兵火にかかり焼失し、同8年(1580)、新たに
8間4面の本堂を建立し、それまでの草葺屋根を板葺に替えた。
天正11年(1583)、顕如上人は紀州鷺ノ森から貝塚に移り、これより2年間余り
この地は本願寺であった。その後、家康より寺内諸役免許の黒印状を受け、
明治維新まで貝塚の領主であった。
 
現在の本堂は寛文3年(1663)の建立で、表門 延宝7年(1679)、
太鼓堂 享保4年(1719)、築地塀、目隠塀、鈴楼の7棟が平成5年8月に
重要文化財に指定され、現在半解体修理が行なわれている。

尊光寺

尊光寺

 

浄土真宗本願寺派。二位山。本尊は木造阿弥陀如来立像(江戸時代の制作)。
 
寺伝によると、高野山の学頭(学事を統率するもの)正了を開基とする真言宗寺院
であったが、1493(明応2)年、嘉祥寺(現在の大阪府泉南郡田尻町嘉祥寺)に
おいて本願寺第8世蓮如の教えを受け浄土真宗に改宗したという。
1524(大永4)年、本願寺第9世実如より方便法身尊像を授けられ寺号を改めた。
もと麻生郷新井村(現在の貝塚新井)にあったが、1588(天正16)年に現在地へ
移転した。明治初年まで京都の興正寺末で、麻生郷7ヵ村にあった西本願寺派の
道場を支配した。現存する本堂は、棟札から1723(享保8)年の再建で棟梁は
貝塚寺内大工の岸上六兵衛乗敬であったことがわかる。

満泉寺

満泉寺

 

真宗大谷派。寂静山。本尊は木造阿弥陀如来立像(室町時代の制作)。
 
明治時代の記録には、初代明順は上野国(現在の群馬県)の出身で、天正年間
(1573~92)本願寺第11世顕如に奉仕して法名を賜り、1585(同13)年に
貝塚に来たと記される。
1604(慶長9)年に東本願寺第12世教如より方便法身尊像を、1613(同18)年に
寺号を授けられた。江戸時代は「寺僧」と呼ばれる地頭卜半家の家来の一寺院で
あった。当寺には1799(寛政11)年の本堂再建時に制作された板絵図が残る。
市内に残る数少ない貴重な板絵図として注目される。

正福寺

正福寺

 

浄土真宗本願寺派。特留山。本尊は木造阿弥陀如来立像(江戸時代の制作)。
 

明治時代の記録には、1508(永正5)年に初代正信が本願寺第9世実如より
方便法身尊像を授けられたと記される。1534(天文3)年に麻生郷新井村
(現在の貝塚新井)へ、その後1583(天正11)年に現在地へ移転して本願寺
第11世顕如に奉仕し、1593(文禄2)年に小堂を建立した。
1630(寛永7)年、西本願寺第8世蓮如の絵像を授けられた時に寺号を改めた。
江戸時代は「寺僧」と呼ばれる地頭卜半家の家来の一寺院であった。

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